ここ最近、ここ1年?ここ半年?AIの進化のスピードが凄まじいですね。
エックスを開くと、クラウドコードでアプリを量産している人たちがいる。
コードはほぼAIに書かせている、設計だけ人間がやる時代だ、と。
数年前まで「プログラミングを学ぼう」と言われていたのに、
いまは「書かなくていい」と言われるように。
AI時代に子どもを育てるということ① 混乱
あまりに進化が早すぎて、自分の立ち位置がわからなくなってきました。
私はいま、ブログを書いています。
この行為は時代遅れなのだろうか、と思ってしまいます。
自分が好きで書いているんだから、時代遅れだろうと好きに書けばいい、と思う一方で、
人が文字を読まなくなっていき、動画に流れていき、その動画すら長いよりもよりショートに。
早く結果が知りたいから、映画を見に行く前に結末を調べてから行く人が多い、というこの時代にあえてブログを書く自分。。
まぁ、私が好きで書いているのはいいとします。
それ以上に大きいのは、親としての不安。
AIが当たり前になる社会で、子どもたちに何を学ばせればいいのでしょうか。
知識は均一化されるのか
AIがあれば、
- 計算は瞬時にできる
- 論文は要約される
- コードは生成される
- 文章は整形される
人間の“知識量”や“処理能力”は、ある意味で均一化されていくと言われています。
では、受験勉強は意味がなくなるのか。大学は不要になるのか。
暗記中心の勉強の価値は確かに下がるかもしれません。
私が高校生の時に必死で覚えた世界史の年号や、元素記号、歴史上の人物名。
それらを覚えるためにものすごい時間を費やしたけど、それがなんだったのか。
私はまだ答えを持っていません。
大学は「知識を得る場所」ではなくなるのか
大学の価値がなくなるとは思いません。
けれど、役割は変わるかもしれない
知識を得る場所ではなく、
- 問いを立てる訓練の場
- 他者と議論する場
- 異なる背景の人と出会う場
- 自分の考えを言語化する場
になるのではないか。
知識はAIで手に入る。
でも「問い」は、自分の中からしか出てこない。
そもそも、詰込みの暗記教育ばかりだったら、「問い」がでてこない人間になってしまうかもしれない。
仕事はどうなるのか
自分の仕事がなくなるのではないか、という不安・・・あります。
AIがコードを書き、デザインし、文章も作るなら、人間の仕事は何になるのでしょう。
士業と言われる、税理士、弁護士、なくなる事はないだろうけど、必要とされる人数は減ると思います。
実際、自分も確定申告の計算にAIを使って、激的に楽になり、ものすごく助かってる。
こういうまだ「助かっている」という点では「生活を便利にしてくれるツール」という側面が強いから、どんどん利用していったらいいと思ってます。
だけど、そう浮かれてもいられない現実もせまっているようで、
現に2026年の今、アメリカでは既に大卒の就職氷河期が始まっているそう。そういう記事を見て、背筋が冷えた・・。
会計士が水道管工に転職したら、年収が3倍に増えた、なんて話も。
ホワイトカラーからブルーカラーへ。
けれど、現実世界を見ると別の風景もあります。
HPの更新方法を説明しても、
「保存」ボタンを押していないだけなのに、「できないできない、おかしい」という人もいる。
検索はYahooやGoogleで十分という人もいる。私もまだググルのでも十分だったりもします。
AIを使いこなしている層と、まったく触れていない層が同時に存在している。
エックスで見る、あらゆるAIを使いこなしている人たちの書いていること。
私のまわりの、これまでと変わらぬ日々を過ごしている人。
その違いがパラレルワールドのように不思議に感じることがあるのです。
できたら、私もAIの便利さを知らないほうが平和に生きられるんじゃない?とか。
でも、好き嫌いにかかわらず、変化の時は刻一刻と近づいてきてきて、それは加速度的でもあります。
あと数年で、世界はパラダイムシフトが起こるような、そんな楽しみなようで怖い。そういう不安があります。
均一化されないもの
もし知識や計算力が均一化されるなら、残るものは何だろう。
- 何を選ぶか
- どんな問いを持つか
- どこで責任を取るか
- どんな人生を設計するか
これはAIが代わりに決めてくれない。
選択の責任は、人間に残る。
ダンスと空手とサッカーの意味
子どもたちはダンスと空手とサッカーをしています。
最初は「体力づくり」「楽しみ」くらいに思っていたけど、
最近、考えが変わってきました。
AIが進化すればするほど、
- 身体を使うこと
- 負けて悔しがること
- 仲間とぶつかること
- 努力の時間を積み重ねること
こうした体験は、より希少になるのではないか。
希少なものは価値が上がる。
画面の中で完結する世界が広がるほど、身体性の価値は上がる。
ダンスや空手やサッカーは、AIに奪われない能力を育てているのかもしれないと思うのです。
それが水泳でも野球でもいい。人間が生身の身体を駆使すること。
そこで得られる喜びや疲れなどが、今からの時代に生きるうえで大事になるような気がします。
早い計算ができてもAIにはかなわない。
でも、ロボットが進化してすごいダンスを披露しても、人は生身の人間が踊るダンスに感動するのではないか。
そして、まわりの人とつながりを持つこと。
自分発信をすること。
そういう自分ブランドを持つことの重要性も感じます。
今は希望をもってそう考えています。
知識よりも「構造理解」
では、受験勉強は必要ないのか。
今はまだそこまでは思っていません。
ただし、「正解を覚える勉強」ではなく、
「構造を理解する勉強」であってほしい。
暗記が悪いんじゃなくて、「暗記しかできない」状態が怖いと感じるから。
なぜそうなるのか。
どうつながっているのか。
前提は何か。
AI時代に必要なのは、答えを出す力よりも、
問いを深める力かもしれない。
まだ漠然とですが、そんなことを考えています。
子供たちが大学受験を考える年齢になるまでまだ数年あるので、その時までに世界がどう変化してるのかな、というところです。
子どもに勉強させるべきか、という葛藤
正直に言うと、いちばん迷っているのはここ。
AIがここまで進化するなら、受験勉強って何の意味があるのだろう、と考えてしまう。
暗記した知識はAIのほうが速い。計算も、要約も、コードも。
では、子どもたちは何を武器に生きていくのだろう。
でも同時に、勉強しなくてもいいとは思えない自分もいる。
勉強を通して身につくのは、知識そのものというより、
「わからないものに向き合う時間」や「考え抜く習慣」なのではないか。
受験という仕組みは不完全で、
偏差値だけで人を測る世界は息苦しい。
けれど、何も努力せずに選択肢が広がる社会でもない。
AI時代だからこそ、私は迷っています。
知識を詰め込むための勉強ではなく、
「考えるための土台」としての勉強なら、意味はあるのかもしれない。
子どもに「勉強しなさい」と言いながら、
本当は自分がいちばん答えを探している。
暗記はもう不要かも、とか「問い」をつける力を、とかここで色々書いておきながら現実は
「宿題やったの?」
と毎日確認してしまう。
宿題をあとまわしにして遊ぼうとする姿にイライラもする。
私は子供にどうしてほしいのか、私の軸となる、核となる部分が揺れているから子供にも迷いがでてしまいそう。
親としてできること
いまの私は、まだ混乱しています。
AIは怖い。と同時にわくわくもする。
この進化の中で、子どもに何を残せるのか。
確かなのは、知識を詰め込むことよりも
考える力を奪わないこと。
答えを急がせないこと。
そして、
- 体を動かす時間
- 仲間と笑う時間・つながる時間
- 本気で悔しがる時間
- 自分から何かを発信する時間
を大事にすること。
AIが進化しても、人間の喜びは、案外シンプルなのかもしれません。
というより、よりシンプルにならざるを得なくなる気がします。
人間は弥生時代に戻るのか
頭のいい人たちはもうAIを使いこなしていて、もっと高知能の人たちは農業にシフトしようかとしている。
そんな本気ともつかない笑い話を見ました。
そう。もう人間はやることがなくなって、農業をして自分たちが食べるぶんだけを作る、それくらいしかできなくなるのではないか。
ITが進化して、AIが行きつくとこまでいったら、皮肉にも人間は弥生時代に舞い戻るのか、そんなことも考えたりしています。
しかし、きっとその時には農業もAI農業になって。ほとんどの事を機械がやって、それを管理できる人間だけが生き残る、またそんなことになってるのかもしれません。
まだ答えは出ないけれど
もしかしたら、数年後にまた考えは変わるだろう。
パラダイムシフトが起きるかもしれない。
でも今の私が思うのは、
「知識が均一化される時代こそ、その人らしさは際立つ」
ということ。
子どもたちが大人になったとき、
「正解を知っている人」ではなく、
「問い続けられる人」であってほしいと思う。